はじめまして、パパです。ママの記事の中にときどき登場するだけで、何も書いてなかったけれど、「パパも何か書いてよ」といわれるまでもなく、書いてみたいような気はしていました。
例えば、ずーっと昔に読んだ夏目漱石の『猫』こと『吾輩は猫である』とか、最近読んだ漫画の『まめねこ』(ねこまき・ミューズワーク、さくら舎)シリーズとか、気楽なタッチでオススメできるといいなと思ったりもしていました。
一方で、すぐに何だかシリアスな方向へ文章が進んで行ってしまう自分の傾向を考えると、この「気楽なタッチ」というやつが「気楽じゃないなあ」と思って、何だかおっくうな気もしていました。
だから、唐突ながら、漱石の『こころ』の「奥さん」が、若い学生に向かって「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくああ飽きずに献酬が出来ると思いますわ」というのは、ぐさっと刺さる指摘なんですよね。
「ことば」で掴まえて確かに所有しておきたい何かほど、あやふやで姿が変わって見えていく。
例えば、わかりやすいところで、「愛」。(もっとも『こころ』の大学生ほど若くもないパパは、さすがに「愛」は所有するものではないことくらい、わかってはいるつもりだけど…。)
多くの「猫飼い」さんがいうように、日々猫といると、ことばで何かを掴まえておくなんてことはどうでもよくなってくるような気がします。人間が気にする妙な心の中の手続きは、猫には無用。猫はそれで人間よりすんなりと生きている。
それでいいんじゃないかと思えてくる。それこそ、その感じはうまく「ことば」にはならないけれど…
「猫は人に懐かない、猫は家につく」と誰かに言われて真に受けていた若い頃のこと。
住んでいたアパートの周りをなわばりにしていた一匹のブチ猫が、学校や仕事から帰ってくる僕に関心を持ち、時々きまぐれに遊んでくれるようになった時の驚きと、その時々にその猫との間に感じる「友情空間」見たいなもの、それが僕の猫との関わりの原風景のひとつ。
だけど、これを、これ以上ことばであらわすのはむつかしい。
猫には、もちろん人間のことばは要らない。人間の発する「信号」のいくつかは理解していたとしても、賢い猫は、人間のことばはしゃべらない。が、しかし猫がことばを知っているとしたら、その内心のことばは、きっと今紹介しようとしている、ポール・ギャリコ著『猫語のノート』(ちくま文庫)の中にある詩のようなことばになるだろう。
そう思わせるような猫語のつぶやき。
ギャリコが猫にこっそり見せてもらった「猫が書いた猫語のノート」。そんな本です。ギャリコはママが紹介した小説『ジェニィ』の作者でもあります。
花は人知れずただ咲いていてそれ以上でも、それ以下でもない。それでもその姿をかいま見た人の中には、そこから花が美しいということの自然さを受け取る幸福を感じる人もいるだろう。ちょうどそんな花のように「猫」は日々を生活しているように見える。「まちがい」(“ERROR”)という詩や、「朝」(“MORNING”)という詩からは、今そこに生きてあるそんな猫の姿が目に浮かぶように表現されている。
また、たとえ猫が悪意を持つことがあったとしても、宝石が悪意なく輝くように、猫の「悪意」は悪意なく輝く宝石の輝きのようにただキラキラしている。「チョウチョ、だいすき」(“BUTTERFLIES WERE MADE TO PLAY WITH”)と題された詩の“PLAY”にはちょっと残酷な意味も含まれているけれど、悪意なく輝く宝石の輝きのようにキラキラする猫の「悪意」をうまく猫語(詩)で言いあらわしている。
「ドア」(“THE DOOR”)と「不幸のフェンス」(“MISERY’S FENCE”)は、小説家のカフカが「掟の門」で描こうとした人生の不条理を、猫語でカフカよりしなかやかに表現しているし、もしかすると猫語はその「不条理」をも、するりと抜け出してしまっているのかもしれない。
「いす」(“THE CHAIR”)という詩に出てくる断固たる意思の表明。
「これはあたしのいす。」
「でも、このいすは、あたしが選んだの。」
こういう意思の表明は、猫と暮らしていると自然に受信できるようになる。これを猫は「猫を世話している人間だけの特殊能力」と、猫の世話をする人間に何の違和感もなく感じさせる。猫が自分をじっと見つめていて、まちがいなく猫がそう語りかけている。その「声」は、よほど鈍感でないかぎり、その人の中に聞こえてくる。でもそれは猫の世話人だけに聞こえてくる特別な「声」。人はその特殊能力が自分にだけ与えられたという「勘違い」だけで満足して、喜んで椅子を猫に譲り渡す。うちの「ママ」も仕事をするときにたいていは、猫たちに椅子をゆずってバランスボールに腰掛けて、幸せそうに仕事をしている。
このように「猫語」は、猫語が聞こえる人に猫が話すためだけにあるのであって、人が猫に話すためにあるではないようだ。最も、人間のことばはもともと「空っぽ」なのだから、そんなものが猫に届かなくても悲嘆することはないだろう。
「ことば」(“SPEECH”)という猫語(詩)では、そのことを思い知らされる。
「あたしがしゃべっているときは/ちゃんと静かにして、聞いてよね。/あたしの言うことがわからないのは/あんたのせいよ。」
「猫語がわからないなんて、/ゆるせない。/ほら、もっと/がんばりなさいってば。」
パパは、この本をすべての猫語の学習者に贈呈したいと思うほどですが、そこまではできないので、熱烈推奨します。いかが…。
書籍情報
猫語のノート ポール・ギャリコ ちくま文庫 2016年