こんにちは、ママです。今回は、「ネコ族の夜咄」の紹介です。ネコ族とはこの本で鼎談している3人の作家・イラストレーターの村松友視さん、小池真理子さん、南伸坊さんのこと。猫が大好きで、ネコ飼いさんの3人が、夜な夜な集まって猫談義をしている、という構成の本です。
この本の始まりは、スタンスの決定から。さすが、もの書きさんですね。単なるネコ自慢は抵抗がある。でも、「猫についての考察」なんていうのや学術的なのはまた違う。だから、そういうところに触れそうで触れないところ、とスタンスを決めて、猫とどういう風に関わってきたのか、から始めることになります。
猫を語るということは結局自分を語るということ。ママが語る立場に立ったら、ちょっと面はゆい感じもしますが(このブログで散々話しているのに)、人が話してくれるのはやっぱり聞きたいですね。猫が大好きなママは猫好きさんも好き。だから、共感したいのかも。気ままな3人は、これまでに飼っていた猫の気ままな様子を、至って気ままに話します。ゾーイ・ウーゴとの「運命の出会い」を経て今に至るママとはずいぶん違って面白い。
どちらの出会いにしても、人間は猫に征服される運命にあるということもわかりました。外ネコを家に入れるまでの猫対人間の駆け引きとか、母猫のおっぱいをもらっている子猫の中で、ドンクサイ子とどん欲な子を入れ替えて、平等に飲ませてあげようとしたり、結果仕事がなかなか進まなかったり・・・(笑)。初めは猫が嫌いだったのに、「猫は私の内臓です」なんて言うところまで猫好きになっちゃったり。やっぱり猫ってすごいです。
でも、猫だって大変なんです。家には入りたいけれど、抱っこされるのはいや。また、自分が家に入れようとしても入らないけれど、奥さんがドアを開けた時には、家の中どころか布団まで一直線など、人によって態度を変える。猫と人との、息詰まる駆け引きです。きっと猫も、どうしたらより多く自分の願いを叶えられるか、慎重に相手との間合いや自分が許容できる範囲を見極めているんだと思います。見誤ったら、ごはんと引き換えに抱っこされちゃいますから。
外ネコを飼うことに、というか、入り浸らせることになった3人は、猫のトイレ談議にも花を咲かせます。外ネコはやっぱり、高くて手触りのいい紙砂なんかよりも、外で用を足して枯葉で後始末をするのが好きなよう。家にある「おもちゃのトイレ」では、「しきたりどおりにやっていられるか」と言わんばかりに、隠さなくなったそうです。ほんの少しだけ、トイレのヘリで砂をかく真似だけしてごまかしたり。
言われてみれば、ゾーイも不思議なことをします。我が家の寝室にあるトイレはゾーイとウーゴのお気に入りです。生成り色のカーテンのそばに置いてあるのですが、なぜか、ゾーイはウンチの後、カーテンで手を拭くんです。初めにそれに気づいたのはパパでした。そのカーテンはママが気に入って買ったもの(高くもないけれど、激安でもない)なので、パパは気にしてくれたのでしょうか、ママの反応を見ながら、遠慮がちに教えてくれました。
初めは「ええっ?」と思いましたが、パパに言われて見た時には、確かにトイレのヘリで砂をかく真似をして、実はカーテンで手を拭いていました。
ゾーイはウンチを隠しません。ウンチに絶対触らないだけではなく、トイレのヘリにはそもそも砂はありません。実は隠す気がゼロなのだと思います。それだけでは飽き足らず、ママのお気に入りのカーテンで手を拭くなんて!なんてきれい好きな子なんでしょう!なーんて言っている場合ではありませんが、我が家では定期的にカーテンをお洗濯しているので、まあいいとします。
このお三方、ほかにも猫と対等に接しています。猫が失敗したところを囃し立てたり、毒蛾やゴキブリと格闘しているところを「人間にはあんな(虫の)動きはできないなあ」と見ていたり、肉球にガムテープをつけて踊るところを見ていたり、袋を頭からかぶせたり・・・。今読んでみると、結構ヒドイことしていますよね(笑)。
この本が上梓されたのは、20年以上前。当時はまだ猫に「猫まんま」と称して人間の食べ物をあげていたり、「外ネコ」が多かったり、獣医療も今ほど発達していなくてあきらめなければならない病気もたくさんありましたよね。災害が起きても「同行避難・同伴避難」なんて発想もありませんでした。今よりも猫と人間はドライな関係でいたような気がします。
先日の「ルドルフとイッパイアッテナ」の記事にもあるように、イッパイアッテナは、アメリカに引っ越す飼い主から、「文字」という生きるすべを与えられて、野良猫にされてしまいます。「ルドルフとイッパイアッテナ」はいい映画であることは間違いないけれど、この部分は、ママは引っかかっていました(でも、この場面がなければあの映画は成り立ちませんが)。この「ネコ族の夜咄」の本が出た時代はまさに、この映画で描かれている時代と同じなのかもしれません。
それに比べ現在は、猫は「家族」や「子ども」という地位を獲得しています。先ほどの、猫が失敗したところを見ても、「猫も傷つくので、見なかったふりをしてあげましょう」と書いてあるインターネットの記事が多いですよね。それに、猫用カツオ節があったり、猫の健康保険があったり、療法食があったり、ペットショップにはキラキラ眩いほどに猫のおもちゃがあったりします。
「ルドルフとイッパイアッテナ」だって、現在ならば、猫を一緒に連れて行くか、もし健康上の理由などで不可能な場合には信頼できる人や家族などに猫を託し、最後まで安全に暮らさせてあげるようにしますよね。安全な生活は、猫の幸せですから(それだけではないけれど)。
ママはゾーイとウーゴにこの本に書いてあるようなことはしたことありませんが、「ネコ族」のお三方がこうしたことを臆せずに言っているのは、このように、その時代に存在していた「猫観」のせいもあるのでしょう。でも、根底にあるのは今と同じ、猫への愛情だと思います。猫の「自尊心」を尊重しありのままを受け入れているからこそ、テープを張っちゃうとか袋をかぶせちゃうとか「試練」を与えて、愛情をもって観察していたのかもしれません。
現在は猫にとってより簡単に生き抜ける時代になったけれど、「老い」や「死」は同じようにやってくるし、避けては通れないものです。ネコ族の面々も、猫を見送ったことがあります。この本の鼎談ではさらっと語っていますが、実際にはとてもいとおしく、切なく、辛い経験だったのではないかと思います。
猫が死んで悲しいのは、自分の魂を輝かせてくれた猫がいなくなってしまう悲しみとさみしさもあるとは思いますが、「どうして猫はかわいいか」「猫は自分に何を与えてくれる(た)のか」という問いに十分な答えを見いだせないままお別れになってしまうからなのではないか、とこの本を読んで思いました。
でも、そんな問いに誰も答えなんか出せないと思います。答えを見つけるには、人間の一生も猫の一生も短かすぎる。猫が愛くるしいから、ひたむきに生きているから、純真無垢に自分を愛してくれるから、思いつくものはありますが、そういう答えではない「何か」があるのではないか、と思うのです。ネコ族の一人、小池真理子さんは、それを「宇宙の深淵」「生きることの意味」と呼びました。やっぱり、たどり着くにはあまりに壮大なのだと思います。
それでも、「失ったものは、飼い主の血肉となって生き生きと息づいている」と結んでもらえたのは、ママにとってささやかなやすらぎになりました。ママは、ゾーイとウーゴを愛し続けることしかできないし、問いに答えるための、経験のピースを積み上げ続けるしかないのだと思います。
それにしても、ネコ族とは、初めは猫が好きで猫を飼っているこの3人のことだと思っていましたが、もしかしたら、この3人も猫のように自由闊達・独立独歩だから、ネコ族なのかも。
書籍情報
ネコ族の夜咄 村松友視、小池真理子、南伸坊 清流出版 1999年