「猫さん」は家族?家の主人?~『なぜ、猫とつきあうのか』の紹介

こんにちは、パパです。いいかげん久しぶりですが、また、本の紹介をさせてください。このあいだ、ママの紹介記事「男の子は、こうして成長するんだね~『ルドルフとイッパイアッテナ』の紹介」を読んで、思うところがありました。外に出て遠いところまでつれていかれてしまった元家猫のルドルフと、彼が出会った野良猫イッパイアッテナの話には、二匹の猫にちょっと「昭和な猫」の関係性が見て取れるように思ったのです。で、その昭和な「猫と猫の関係」、「人間と猫の関係」の変化を語っているのが、この本です。この当時、たぶん南伸坊とか赤瀬川源平、藤森照信の「考現学」というのが、流行っていた時期だったと思うので、「猫の考現学」みたいなことをねらったのかも知れません。

インタビュー本として

著者の吉本隆明は、パパの世代にとっては詩人として、また『共同幻想論』や『マス・イメージ論』・『言語にとって美とは何かⅠ・Ⅱ』などの評論を世に問うた人として有名ですが、作家の吉本ばななや漫画家のハルノ宵子が娘であると言うと分かる人もいるのかな。この本は、ミッドナイト・プレスという詩の出版社から1995年(平成6年)に刊行され、1987年(昭和62年)から1993年(平成4年)にかけて行われたインタビューをもとに構成されたものだそうです。インタビュアーは詩人の岡田幸文と山本かずこ。吉本隆明に「猫」を語らせるというこの企画自体は、他の方があるところで言っているようにそこまで成功しているようにも思いません。晩年の吉本さんの講演をテレビで観たことがありますが、その時の印象と同じで少し繰り返しが多く、冗長な印象を免れない感じです。それでもテレビでは語り手の「生」の息づかいや思考のリズムが伝わってくるのでそれでもいいし、何しろ当時の吉本は家のなかでは這うように移動していたらしく(本書解説にもそのようなくだりがあります)、座ったままで登場して、むしろ熱気のようなものすら感じました。ただ、雑誌のインタビューとして活字で読むと、この語りは少しすっ飛ばして読みたい感じはあります。

あじわいある語り口

けれども、慣れてくるとやはり味わいがあり、隆明先生の座敷に入ってくる野良猫や飼い猫の気配を感じながら、茶飲み話の気分で、「この間はどこまで言ったっけ…? あああの猫さんの話」みたいな感じで会話が細い路地を折れ曲がりつつ進み、それこそ猫のように興味に応じて妙なところに連れて行かれ、知らない「場」に引き入れられるかと思うと、また元の大通りに出てきたりする。そんな感じなのです。よく知った大通りも一歩路地裏に入れば、そこに思ってもみなかった知らない関係性の世界があることを感じさせる。そして、知らない下町の路地裏に迷い込んだ子猫のように周囲の他者たちの濃密な関係性との距離を測りかねてうろたえている自分に気づき、その厳しい場所でしなやかにたくましく生きている外猫の世界をリアルに感じとる。そんな印象です。(吉本さんの語り口については、YouTubeを検索すると糸井重里が聞き手になって当時の茶の間で語っている姿を見ることができるかと思います。)

「昭和な猫」と下町の少年

前に紹介した『猫語のノート』の著者ポール・ギャリコは、別の本『猫語の教科書』で外猫が人間の家を「乗っ取っていく過程」を描いています。(この本についてもいずれ紹介したい。)しかし、吉本の見方はそれとは少し違う。吉本は子どものころ、新佃島に住んでいた。そこでは「猫はいつのまにか家に居つき、いつのまにか家から去ってゆく生き物だとおもっていた」と言います。吉本はそのころよくいた子どもと同様「二本鼻汁を垂らしてい」たそうです。それでそれを「よく猫になめてもらっていた」と言い、「その親密さは度外れていたとおもう」とも述懐しています。というか、ちょっと…!!。

横に親和して住む猫

最近のある統計では猫の飼い方では、室内飼いが70%程度だそうで、この飼い方のほうが一般的です。しかし、ここに展開されている「昭和な猫たち」の世界はそれとは違います。もちろん室内飼いのほうが圧倒的に寿命も長くなりますので、現代の飼い主としてはこちらを選択する方が多いわけですが、本来の猫というか、もともとの猫というか、「昭和な猫」というか、「イッパイアッテナのような猫生」というかを垣間見て、少し感じたり考えたりする部分もあるように思います。吉本は批評家だけあって、こんなことを言います。

「猫は人につくのではなく家につくというのは、ほんのすこし言い方がちがうような気がする。人は 竪(たて)に親和して住むのに猫は横に親和して住むと言った方がよいのではなかろうか。わたしの家で親和感をしめしている猫が、見知らぬ家でもおなじような親和感をしめしていることがありうる気がする。だから新しく引っ越した家で逃げられてしまったとしても、どこかでまた親しい家を見つけて暮らしていることは間違いないとおもえる。(引用者割り込み:といっても現在では「間違いない」とは思えないですね)ほんのすこし人間の愛惜感と猫の愛惜感とは勘どころが違っている気がするが、猫の人間にしめす愛惜感もほんとうなのだとおもえる。そしてこの勘どころの違いが、あるばあい相互に素っ気なくみえたり、過剰な親和性にみえたりする個所にちがいない。」

ポール・ギャリコの『猫語の教科書』にも、別宅を持つ猫のことがかかれていますが、吉本の視点は少し違っているようです。猫が「横に親和している」「横に生活している」というのは、人間の家を猫が所有しているというのとは違うとらえ方です。そして、「種族、としての猫はそういう習性なんじゃないでしょうか」と言っています。もしそうだとすると、様々な事情からやむを得ないとはいえ、僕とママも含め猫の室内飼いというのは、本来の猫の習性を変化させてしまっている面があるように思って、立ち止まって考えさせられるところが僕にはあります。ただ、ポール・ギャリコと吉本の猫を見るまなざしの共通点は、猫は人間との関係性としては「人間の所有物」とか「忠実な家来」にはならないということではないでしょうか。そういうことに気づかせてくれる本だと思います。

「生活する人、吉本」のもののみかた

吉本の猫を観察する観察のしかたは、批評家としてというよりも詩人としての感性が、より発揮されているのかもしれません。論理というよりも、ある種の「感じ」とか「気配」のほうにより信頼を寄せているように思います。もっとも批評家としても、市井の生活者の感覚に変換しようとして変換できない「ことば」とか、概念とかは、信用しないところがあったと思います。この本ではだいたい、「見ていますと…」とさりげなくその観察が語られていきます。たとえば、猫は人間のような意味での「個性」というか個人を出発点とする個別性というか、そういうのはあまり感じないというんですね。吉本は、それで「猫にも性格がありますし、それから意識ももちろんあるとおもいますね」といって、猫の性格は、人間の個性とは違って、ペルシャ猫とか、シャム猫とか、日本猫とか…「種族としての性格っていうのがあるとおもうんです」と言っています。そして、ペルシャ種の人なつっこいのに肝心なところには寄せつけない妙に一線引く感じを語っている。こんなふうに吉本は常に自分の実際の観察をもとに語っています。冗長だろうがなんだろうが、平凡だろうが見たまんまだろうが、自分の観察に基づいて、自分の責任で自分の表現したいことを言う。この語り方というのは取り戻せるなら、僕は現代のネット社会にも取り戻したいと思いました。それで、そういう語りの中から、ハトを狩りして家までくわえてくる猫の話が出てきて、朝日新聞に掲載されたオジロワシに野良猫が飛びかかってぶら下がっているように見える写真を「これは僕も見ました」なんて言っている。そういう意味で親しみを持てます。

猫の散歩

さて、犬の散歩は人間が散歩につれていくことが必須ですが、猫を連れて歩く飼い主というのはほとんど見たり聞いたりしたことはありません。どこの国だったか、リードもなしに猫をつれて歩く映像は岩合さんの「ネコ歩き」で見てびっくりしたことはありましたが、普通「猫の散歩」といえば、室内飼いではない猫が近所を歩き回るというイメージになるでしょうか。これについても吉本は、冒頭のルドルフ君ではないですが、「猫にとっての冒険」という視点で語っています。インタビュアーが新聞に掲載された「遠くから帰ってきた猫」の話を紹介すると、自分の家の猫がどこか遠くから帰ってきた経験を念頭に「猫から目線」での想像から、「感動的ですね。そんなこと僕にはちょっと信じられない気がします」と言っている。猫にはテリトリーがあって、「漠然とボスの猫さんがいるんですね。」「家出した(吉本家の)猫だって十日間の間どこにいたかっていうのはわからないんですね。やっぱりどっかのテリトリーへ行ってけんかしたんだけど、だめだった。それだから次のテリトリーへいったんだけど、またそこもだめだった。結局傷がだんだん化膿してきて、(中略)ふらふらしながら帰ってきたっていうふうに想像するんですが、(中略)とても遠くから戻ってきたっていうの、(中略)猫の場合はほんとうに珍しいことだと思いますね。」と語っています。こういう立ち位置で「感動的ですね」って言うのが吉本という詩人・批評家なのではないでしょうか。

猫と人間の関係

そんな猫と吉本というか、猫と吉本家の関係性が昔のもの「昭和的なもの」を引き継いでいながら、吉本自身は時代の流れの中で、何か「猫と人間の関係性」が昔から現在、現在から未来、つまり私たちにとっての現在点へと変化していることにも注目しています。まず、稀な例として畑正憲、つまり「ムツゴロウさん」の例があがっている点に触れておきたいと思います。「ムツゴロウさん」は、猫の専門家というより、動物全般の専門家で、動物であれば何に対しても一貫した態度で接している気がします。吉本はそんな「ムツゴウロウさん」は、普通の人が猫を擬人化してつき合ってしまうのに対して、人間である自分のほうが「猫化」して猫に接している気がすると言っています。それで「子供のときからの先入見でみると、猫と人間の関係は親密化したというのか、それとも飼い猫化したっていうんでしょうか、野性がなくなったといえばずいぶんなくなっているんじゃないでしょうか」とか、「風邪ひいて、うちの猫なんかゼーゼーゼーゼーしてたり、くしゃみしたり、人間とかわらないですね。あんなの子供の頃の猫にはいなかった。」「飼う方でもほっとけば治っちゃうみたいにおもってたけど、いまだったらうちでも獣医さんのとこ行って風邪薬ちゃんともらってきて、飲ませたりしますから、(中略)猫の方もずいぶん人間化したっていうのでしょうか」など言っている。また、この頃はじまったとように思いますが、猫の供養やお墓のビジネスにも触れている。それで、ここが肝心ですが、だからといって吉本は市井の人が猫を擬人化する態度を非難したりしません。こういうところが最近の「一億総つっこみ時代」(マキタスポーツ著)といわれる最近の風潮と違う点ではないかと僕は思います。で、猫に求めるものが人々の中で変化していて、生きづらくなっている世の中で、猫のような生き方というか、猫のように動じないというか、良い距離感でのパートナーというか、コミュニケーションというか、これが求められているのじゃないかみたいなことをおっしゃるわけです。そして、これは簡単にいいことかわるいことか決められないと言っています。

「たぶん動物をかわいがる人たちがふえてきて、かわいがり方のレベルが向上するのかどうか知りませんが、かわいがり方が気になってきたっていうことは、逆に言うと、人間社会の人間関係っていいましょうか、それがきつくなったっていうこととかかわりがある気もします。」

こういうある意味「大人の批評」が出来る人が今いなくなっちゃている、というか、場所がないような感じになっているように思います。あいまいだ、少しわかりにくい、もやもやする。これだでけで敬遠されてしまう。うーん。考えすぎると、猫のように昼寝したくなります。けど、そんな場所ないよね、みたいな…。ウロウロ。

ボス猫チャーリーの死

 吉本が衝撃を受けた猫の死として挙げているのが、近所の「ボス猫のチャーリー」の死です。吉本はそれまで、昔の人がよく言ったように「猫っていうのは死ぬときにはどっかにいなくなって、どっかへ行っちゃって死んじゃうんだというふうに」思い込んでいたそうだ。ところがチャーリーの時は違ったといいます。「病気になったら、うちの子供がボール箱の下にホカロンみたいなのを敷いてやって、そのうえに布を敷いてやったら、そこにガタッとこういうふうに寝込みまして、何日かそう寝込んでて、(中略)行くとチラッと目を上げて見るっていうぐらいになって、しかしそのまま大往生というのか、スッと死んじゃいました。」そして、こう述べている。「僕は初めて猫がちゃんと死ぬところを見ましたね。へえっとおもって、猫もこういう死に方やっぱりあるんだとおもいました。死んだとき大往生というか、堂々たるもんでっていいますか、ほんとに寝込んだままでスーッと眠るごとくに死にましてね。貫禄もあるし、性格もおっとりいい性格で、そういうボスだったんですね。」この猫の死に目にあった経験は、よほど心に残ったようで、吉本はこの本の複数のインタビューで触れている。そして、猫の死というものが、人間に与えるショックについて、次のように言っています。

「自分の家で飼っていた猫が何匹か死んで、埋めましたけど、何かそのショックっていうか、悲しさっていうか、そういうの人間の場合とさして変わらない気がします。そこが問題なんだけど、それなら何度かは会ったことがあるような知人が死んだときの悲しさと、うちの飼っていた猫が死んだときの悲しさっていうのと、どっちが悲しいんだっていったら、こっちの悲しみの方が切実でしょ。(中略)これは正直に率直に言ってそうだから、これでいいのかなっておもいます。(中略)要するに、親しい生き物ののその方が切実だっていうことです。悲しみとか、いなくなったときの欠如感とか、とても切実なんだ。」

この吉本のことばを裏づけるような「証言」として、吉本ばななが解説の最後に書いています。

「父がもうほとんど歩けなくて家の中をほとんど這うように移動していた時期のある大みそかに、 私と夫と子どもが実家に着くと、玄関にものすごい「死」の匂いが立ちこめていた。ケージが置いてあり、具合の悪い半野良ちゃんが入っていた。(中略)◇姉が定期的に通院が必要なシロミちゃん(引用者注:別の猫の名前)を連れて病院に行っている間に、その猫は息をひきとった。父はその汚れて臭い亡骸のことを全くかまうことなく、すぐ近くの床にべたりと座って、ほんとうに優しく力をこめてその猫の頭をぐるぐるっと撫でながら「いい猫さんだった、いい猫さんだった」と言った。◇それが私の父と猫との関係の全てだと思えた。(中略)◇父は全身でそこにいたし、猫の死に寄り添っていたし、言葉を捧げていた。◇私は今でもその場面を大切に抱いている。」

いい本だと思います。僕は…。ただ最大の謎、この本が講談社学術文庫に入っていること。まあでも、「猫」だから学術文庫にも横から入ってあたりまえのように横になってそこにいるのかも。

書籍情報

なぜ、猫とつきあうのか 吉本隆明 講談社学術文庫 2016年