猫を嫌いな人も読んで!~「猫が歩いた近現代」の紹介

こんにちは、ママです。今回は、「猫が歩いた近現代」の紹介です。先日「猫の世界史」という本を紹介しましたが、主にエジプトやヨーロッパにおける猫の歴史を扱ったものでした。「猫が歩いた近現代」は日本の明治時代以降に焦点を当てて、猫と人間とのかかわりを紹介しています。

著者は、「猫なんて・・・」という人も「猫の歴史」を構成している一部だと言います。なぜなら、猫の歴史は、猫を鏡にした人間自身の歴史であるから。猫は人間の言葉で語ることができません。現在語られている「歴史」が、残された文字からひもとかれたことからもわかるように、人間の言葉で語ることができない猫が歴史の主体に置かれることは、不可能です。でも、現代は、猫を愛する人がたくさんいる一方で実験材料にされるなど、人間との関係は複雑になってきています。

この本では、あえて猫を歴史の主体に置くことで、猫にとって「近代」「現代」とは何であったのかを考えています。著者は、これは人間社会の写し鏡であるけれど、それと同時に、猫への好き嫌いという「分断」と、それに起因するトラブルの歴史から、現在存在している分断の中で様々な価値観を持つ人々がどう共生するかのヒントとしたい、としています。

猫がそんな力を持っているのかしら?ママは、きっと持っていると思います。なぜなら、これまでこのブログで映画や写真集、エッセイなどの記事を書く上で、猫の素晴らしさをこれでもかというほど感じてきたから。ただそこにいるだけの猫に、人はどれだけ救われてきたか、どれだけ愛を引き出されてきたか、わかるから。

江戸時代から明治初期までの猫に対するイメージは、実にさまざまだったようです。歌川国芳や喜多川歌麿などが猫の浮世絵を描いていますが、歌麿は美人の添え物として猫を描き、国芳はそんな猫を擬人化したり、歌舞伎役者の顔を猫にしたりして、主役へと引き上げました。でも、それは猫そのものが受け入れられたのではなく、猫を擬人化した「見立て」が観客に受け入れられたからであると、著者は指摘しています。

江戸時代にはほかにも鼠除けの「猫絵」や招き猫が流行しましたが、これも「猫ブーム」だからではないそうです。もしそれらが猫の代替物だとしたら、猫そのものを大切にする人が出てきても不思議ではないですよね。つまり、国芳の奇想であったり、鼠除けや招福などの文脈であったりと、人間と猫のかかわりはこのころはまだ一面的であったようです。

日本では古来から、犬をけしかけて猫を襲わせたり、猫を守るために犬を打ったりといった形で、猫と犬の対比が描かれることが多かったようです。でも、一般的には犬の方が受け入れられていたよう。犬はわかりやすく、なつきやすく、猫は逆に化け猫のイメージが大きかったからのようです。けんかで傷ついて帰ってきた猫を博物学者の南方熊楠は汚いと言って蹴飛ばしたり、一般にも平気で投飛ばしていたりしていたそう。ママは胸がキリキリします。このような猫が、どのように主役になっていったのでしょうか。

ところで、日本で初めて猫を「猫かわいがり」したのは、誰でしょうか?それは、明治時代の小説家二葉亭四迷だそうです。四迷は、自分の猫は美醜に関わらずかわいいと抱きしめる。でも、その猫は強い野良猫の子を孕んでしまい、「猫の恋は精神的な恋愛ではない」と落ち込みます(何か分かる気も・・・)。その猫のお産の時には大騒ぎ、夜通し面倒を見て、「昨宵は猫の取揚げ爺さんをして到頭眠られなかつた」と満足げだったとか。

それなら現代の猫飼いさんにも当てはまりそうですが、四迷は、生まれた子猫の引き取り手を探すのに私立探偵を雇わんばかりで、ついには「猫に名なんぞを付けるは人間の繁文縟礼であつて、猫は名を呼ばれても決して喜ばない」とまで言い切ったそうです。

す、すごい。現代の猫飼いさんよりも激しい「猫愛」ですね。でも、当時としては随分「先進的」な考え方だったそうですが。明治時代の「猫像」は、夏目漱石が猫を主人公にして描いた小説「吾輩は猫である」で決定的なものになりますが、家族の内情を暴く性悪猫として描かれるなど、近世以来の猫観も引きずっていたようです。

猫が人間の家庭に入り込んだのは、ペスト対策として猫の飼育が奨励されたからだそうです。これをきっかけに、猫の売買・輸入が始まりました。でも、ペストを媒介する鼠を「猫イラズ」で殺すようになって、猫の受難の時が訪れます。また、このころの男尊女卑の風潮と合わさって、猫の持つ神秘性が女性性を結び付けられました。

でも・・・、このころの風潮とは言うけれど、つい最近まで、猫や女性ってこうした見方をされていましたよね。男性は犬好き、女性は猫好き。それだけならばいいけれど、「犬は人間に忠実だから」、「猫は不気味でとらえどころがないから」といった、ネガティブな意味が、必ず含まれる。ママは子どものころから、ちょっと違和感があるというか、収まるべきところにうまく収まっていないような気がしていました。ただ、それが女性蔑視につながっていると気づくのにはずいぶん時間がかかりました。「当時」を生きていると、「違和感」の正体がなかなかわからないんですよね。

でも今は、猫はとっても愛くるしい動物。もちろん、犬も一緒。他の動物だって、愛すべき動物。ママはどんな動物も好きだし、パパも猫が大好きだし、インターネットを見ていても、猫の持つネガティブなイメージは随分となくなったような気がします。

その後は、猫の地位は上下を繰り返します。動物愛護団体の設立、動物病院の増加、戦争による猫供出、戦火による被害、引き揚げによる猫との別れ、公害の被害、動物実験の犠牲・・・。人間が中心の社会では、人間以外のものは人間の都合によって利用されてしまう。猫を愛する人間の作り出した社会の流れと、一度起きてしまったらだれにも止められない社会の流れの中で、猫の飼い主たちは苦悩し、流れに従い、一生の後悔を持ちました。

ママだったら、どうしただろう?供出させられる前に一緒にどこかに逃げます。内地へ引き揚げるのならば、絶対に二人を一緒に連れて行き、離しません。おなかがすいた誰かに食べられたりしないよう、一時もそばを離れないようにして、武器を使ってでも守ります。お金をかけてでも、安全なものを食べさせます。・・・と今ここで言っていても、実際の場面では流れに逆らえないかもしれません。身を切る思いで辛い選択をせざるを得ないかもしれません。つくづく、「猫はかわいがるもの、かわいいもの」という猫観の現代に生きているのは、幸せなのだと思います。

現代は、猫は「猫かわいがり」されています。冬や暖かく、夏は涼しい部屋、気持ちいいベッド、質のいいごはんと新鮮なお水、大好きなおもちゃ、そして優しい飼い主。動物医療は進んで、猫の寿命は長くなってきています。動物の福祉のためにマイクロチップが義務化され、ペットショップでの生体販売にも最低日齢の規制ができました。

外猫も、TNR・地域猫活動や災害時の同行避難・同伴避難など、地域で見守る体制もできています。保護猫団体の多大な尽力で、殺処分される猫の数も大幅に減りました。でも、まだ外猫がいるのは事実。動物実験で使われてしまう猫がいるのもまた事実です。

人間の力や考え方のせめぎ合いで世相が変わってきたことを、「歴史」と言うならば、この後、猫は人間とともにどんな未来を歩むのでしょうか。この記事の初めに描いたように、著者は猫への好き嫌いという「分断」と、それに起因するトラブルの歴史をひもといて、猫嫌いの人とも共生するためのヒントとしていきたいと言っています。

そのためにまずママができることは、ゾーイとウーゴを変わらず愛し続けて、安全で幸せな生活を送らせてあげること。今もできる範囲で保護猫団体に寄付をしているけれど、それも続けていくこと。近所の地域猫に「頑張ってるね!」と温かいまなざしを注ぎ続けること。そのくらいしかできませんが、ママも含めいろいろな人たちの猫愛が作るムーブメントが猫好きさんを増やし、地球上のあらゆる猫たちにとって幸せな毎日をもたらしてあげられるようになるといいな、と願っています。

書籍情報

猫が歩いた近現代 真辺将之 吉川弘文館 2021年

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