こんにちは、ママです。猫は独立心旺盛で自由気まま。遊びに夢中になっても、飽きるとパッとどこかへ行ってしまいます。と、一般的にはよく言われますよね。我が家のゾーイとウーゴは、半分くらい当たっています。独立心はあるけれど、人並みであって、「旺盛」ではありません。自由気ままだけれど、見ていると、生活のかなり中心に近いところには、パパとママがいるような気がします。遊びに飽きるとどこかへ行ってしまうけれど、たいていママが遊ばせ疲れるほうが先。それぞれが「ママと二人で遊びたい」と思っているので、二人に焼きもちを焼かせずに満足いくまで遊ばせるのって、大変なんです。
二人が飼い猫だからか、パパとママが二人のことを「娘と息子」だと思っているからか、ゾーイとウーゴは、猫なんだけれどどこか猫でもないような、フクザツな印象の二人に育ちました。こうなってくると、「飼い猫」という新ジャンルを作りたくなります。
今回は、「猫の紳士の物語」の紹介です。アメリカの女流作家メイ・サートンの小品で、実在の猫をモデルにした「紳士猫」が主役です。日本語版は1996年にみすず書房から出版されているけれど、原語版は1957年に出されているそうです。時折出てくる挿絵が秀逸。猫が「紳士顔」のままマタタビに酔っぱらったりおもちゃで遊んだり、何とも言えない情感があります。
主役の「紳士猫」は、お話では「毛皮の人」と呼ばれています。のちに、トム・ジョーンズという名をもらいますが、ママは「毛皮の人」という名前が気に入ったので、このまま「毛皮の人」と呼んでいきます。
二歳のころ、「毛皮の人」はそろそろ身を固めるべきだと思いました。身を固める?!どういう意味なんでしょう?「毛皮の人」は、ある男の子に命を救われ、飼い猫となります。でも、小さな男の子って、エネルギーに満ちてあふれていて、猫が相手をできる存在ではありません。少なくとも、理想的なハウスキーパーとは、「できれば庭付きの小さな家に住んでいる(そして屋根裏と地下室がある)中年独身女性」であることが常識の猫界では、やはり無理なのでしょう。
その男の子がしてくれる献身のお世話に愛想が尽きた「毛皮の人」は、家を出ました。でも、周りにいるのは紳士猫との交際のいろはすら知らない粗野な八百屋さんたちしかいません。食べ物をもらっているのに、なんてことを言うんでしょう!「毛皮の人」は、家主でも世話係でもある同居人(ハウスキーパー)を、体系的に探索し、常住の地を見つけて「身を固め」ようと思ったのです。
外の猫には厳しい世界があります。「縄張りのなかにあるものならすべて、重箱の隅をつつくように熟知していなければならない」し、「近所の乾物屋があのうまい鱈の頭や尻尾やらを放り出すときに、たまたま居合わせる時間も覚えなくてはならない」。「ばあさん連を説き伏せてミルクの皿や、たまにはクリームだって出させるすべも知らなくてはならない。しかもこれは決して捕まらないという条件付きで」。
なかなか大変ですね。これも立派な猫の狩り。「無傷」で食べ物を得るためには、とても頭を使います。でもこれだけではありません。他の猫との競争にも、勝たなくてはならないんです。ある時、「毛皮の人」はその夢が現実になる瞬間(実際にはその直前まで)に出会います。でも、灰色の髪をした女性に優しく呼ばれたのは、別の猫。完璧な安息の地は、もうほかの猫のものだったのです。
悔しさを抑えて、「毛皮の人」は歌を歌います。すると、灰色の髪の女性が出てきました。でも、「毛皮の人」は紳士猫。まるっきり無関心を装って、背を向けて坐ります。「呼びかけられた時、筋肉を一つも動かさぬこと。あたかも聞こえなかったかのように」なんて、フランス料理の名前「○○の△△仕立て ~~を散らして」みたいな「紳士猫の掟」の第一戒に従います。
「早く家にお入りよ」と言って迎えてくれた女性でしたが、先ほどの猫とけんかになります。「毛皮の人」は悪態をついて再び夜の闇へ。「お前のミルクは酸っぱくなれ お前の魚はケッタイな味になれ お前の肉はヘンチキになれ」
んまあ。ゾーイとウーゴは絶対にこんな悪態は尽きません。でも、外ネコは、それだけ厳しい生活を強いられているんでしょう。ママは「毛皮の人」を責める気にはなれません。早くいいひと見つけて、身を固めて!
「中年の独身女性のハウスキーパー」をさがす「毛皮の人」。次に迎えられた奥さんは、アパート暮らし。もちろん、お庭も屋根裏部屋も地下室もありません。風通しの悪い部屋のにおいをかぎ、嫌な予感がしましたが、ドアは閉じられていて逃げ道はありません。「毛皮の人」は背後から襲い掛かられ、不名誉にもキッチンへと引きずって、ごはんの乗っているお皿に前におろされたのです。紳士猫なのに!
紳士猫な「毛皮の人」、どんなにひもじくとも急がず、遠くからおもむろに食べ物に近づいてにおいを嗅ぎ、「結構」「まずまず」「我慢できなくはない」「話にならぬ」の判決を下す、という猫の掟に従って行動しようとしていたのに、猫の尊厳を無視するかのような奥さんのあしらい方に腹を立て、奥さんのことを「話にならぬ」認定します。
でも・・・。毛皮の人は逡巡します。紳士猫といったって、ナデナデしてほしいときはあるし、もしナデナデが気持ち良いいようならば、もっとしてほしいと思っているのに・・・。アパート暮らしの女性も、本当は「毛皮の人」にこのままいてもらいたいんです。猫と人間の息詰まる場面ですが、人間の男女の関係にも似ていますね。結論。この家はもう結構。「毛皮の人」は逃げ出します。想う人から想われず、想わぬ人から想われて。世の中ってうまくいかないね。
二人の親切なご婦人にも出会いました。二人はどうやら、「猫の言葉」がわかるようです。これは、話す言葉のことではありません。以前パパがポール・ギャリコの「猫語のノート」の記事にも書いてくれましたが、人間が猫と暮らしていると自然に受信できるようになる、猫の意思の表明のこと。猫が自分をじっと見つめて、まちがいなく猫がそう語りかけてくるその「声」のこと。猫はどうやら、「自分の声(猫の言葉)は人間にも問題なく通じているのはずだ」と思っているらしい、というのが、パパの意見です。
だから、パパが「猫語のノート」から抜き出した猫の言葉「あたしがしゃべっているときは/ちゃんと静かにして、聞いてよね。/あたしの言うことがわからないのは/あんたのせいよ。」とか「猫語がわからないなんて、/ゆるせない。/ほら、もっと/がんばりなさいってば。」とかを、「毛皮の人」も思っているのかもしれないし、そう思っているからこそ、「理想のハウスキーパーを体系的に追い求め」ているのかもしれません。
「猫の言葉」を理解するこのご婦人たちとの相性はどうだったのでしょうか。「毛皮の人」は身を固めることができたのでしょうか。「毛皮の人」は、十ある猫の掟を自分なりに並べ替えます。それは、尊厳と慎み、自由の象徴。そして、「毛皮の人」という名前にも、実はとても誇らしい意味が隠されていたことに、「毛皮の人」は気づきます。そして、もう一つ、掟を付け加えます。「人間にほんとうに愛されたとき、猫の紳士は毛皮の人となる」。
ゾーイとウーゴが「毛皮の人」のように思索にふけるかどうかはわかりません。でも、「毛皮の人」の見を固める問題を愛する・愛されるの問題ととらえたとき、きっと、同じものを見て、パパとママに伝えてくれているのだと思いました。そうしていると、「毛皮の人」のように、ほんわかした気持ちに包まれて、眠たくなってしまうんでしょう。だから、「飼い猫」という新ジャンルは必要ない。そしてきっと、パパ、ママも「毛皮の人」。猫語、ちゃんと勉強しなくちゃね。そう考えていたら、ママも眠たくなってきちゃった。今日はこれで終わりにしよう。
書籍情報
猫の紳士の物語 メイ・サートン みすず書房 1996年