こんにちは、ママです。今回は、「作家と猫」の紹介です。この本は、昭和から現代の作家・漫画家・イラストレーターなど文筆家と言われる人たちにより書かれた猫についてのエッセイや漫画を収録した珠玉のアンソロジーです。文筆家たちが猫とどのように出会い、暮らし、別れを迎えたかが、豊かな愛情をこめてみずみずしく描かれています。
文筆家たちは、どうしてこんなに猫が好きなのかしら?集められたエッセイや漫画には、猫のしもべと化しているという描写も多く見られます。例えば、大佛次郎は、猫が大好き。生涯を通して500匹との猫と暮らした(!)なんて言う武勇伝もあるくらいです。でも大佛は、冬は猫が障子にあけた穴から寒い風が吹き込むので寒くて仕方がないと書いています。
大佛は、借家を出るときに、猫が自由を満喫しつくしてボロボロになったところをすべて修繕して出ていったそうです。猫を愛するがあまり、こうしたことをこなすのも嬉しくて、責任を全うするのでしょう。ママも、ゾーイやウーゴのための買い物が嬉しくて、ホームセンターへ行くときには足取りが軽くなってしまいます。ウンチを取るのだって楽しい、それを入れる袋を買うのも、人間用のごみ袋を買う時よりもずっと嬉しい。そう書くとちょっとヘンな人みたいですが(笑)、大佛もこんな気持ちだったのかもしれないなと思います。
金井美恵子は「猫と暮らす12の苦労」と題して、猫に布団を取られるので風邪をひくとか、旅行に行けないとか、8キロもあるけがをした猫を病院に運ばなければならないとか、段ボール箱を捨てられないとか、困っていることを説明します。12の苦労はどれも、みんなが来た道、行く道です。でも、最後は「しかし、それでも、トラーは何と言ってもかわいいのである」と締めています。
こうした「表現のプロ」の人たちの文章や絵は、ママなんかがとてもじゃないけれどまねできないほど(当たり前ですが)、鋭い観察と着眼をもって猫を見て、技術力をいかんなく発揮して作品に余すところなく表現しています。読んでいると、普段の猫の行動が、とても尊く、いさぎよく感じられます。きっと、こうした職業の人たちは、対象を自分と重ねてみたり第三者的に見たりと、自在な視点を持っているのでしょう。冷静さとあふれんばかりの猫愛が、見事にブレンドしています。
このことを、開高健は「詩人、小説家、音楽家で猫を愛する人が多いのは、猫の与えてくれる孤立の精妙さのためで、それによって現世で傷ついた自分の誇りや自負の、理想的な実現を、ふと読まされるからではないか」と言っています。猫と戯れていると、自分が受けた嫌な出来事やそれによって抱く悪い感情がどこかへ飛んで行ってしまう。それは、甘えん坊(でない猫もいますが)であるけれど媚びないという猫の性格が、「いざこざなんて、どうってことないよ」と言ってくれているように思えるからでしょう。
猫の持つ「孤独さ(孤立)」は、赤ちゃんの持つ無心さと通じるところがあると思います。猫が私たちに言ってくれる「どうってことないよ」という言葉は、人間の相談相手に言われるのとは全く違った意味を持っています。それは、文脈があっていっているわけではないところ。相談相手は、状況を聞いて、相手を知って、自分の経験からアドバイスをしますが、猫はどちらかというと「そんなこといいから、遊ぼうよ~。」と言っているようです。どんな無垢なところに打たれ、私たちは、「また頑張るか」と言って戦線復帰するのでしょう。
ちなみに、開高はこうも言っています「さて、荒涼とした私はしばらく猫とたわむれ、侮辱されたり媚びられたりするままになってから、傷つくことなく人間の孤立や反逆の無様のことを考え、(中略)わが小説の登場人物のところへ戻ってゆく。そして傷つくのである。」やっぱり、また傷つくのね(笑)。ゾーイとウーゴに慰めてもらいながら、ママも毎日頑張らないと。
面白いのが、寺山修司。猫の辞典と題し、猫の定義をあげています。「猫・・・・・・ヒゲのある女の子」「猫・・・・・・謎解きしない名探偵」「猫・・・・・・財産のない快楽主義者」などなど。猫って、人間のことを本当によく見ていますよね。また、部屋の隅から何か(ごみとか以前なくしたボールとか)を見つけてきます。新しいものは、すぐに感づいて飛んでくる。でも、そのくせ別に謎解きなんかしたくない。その通りだと思います。また、プレゼントにおもちゃやベッドを買ってあげても、商品よりも段ボール箱の方が好きだろいうのは「猫あるある」ですよね。
鋭い観察眼と秀逸な表現の寺山。でも彼はここで終わりません。「猫・・・・・・この世で一番小さな月を二つ持っている」。ああ、なんて素敵なことば。猫の目は本当に美しいな、と、知っているくせに、読んだ瞬間もう一度記憶を呼び覚まされます。その時に感じるのは、草原の風でしょうか?明るい月夜の透明な空気でしょうか?それとも、碧い湖の底でしょうか?ママはここを読んだとき、猫を飼っていて本当に良かったと思いました。これからゾーイとウーゴの目を見るたび、感じる美しさに深みを与えてもらえる気がします。
極め付き。「猫・・・・・・このスパイは よくなめる」。脱帽です。
絵を描くプロも、負けてはいません。漫画家のいがらしみきおは、代表作「ぼのぼの」が大人気ですよね。昔ママも大好きで、漫画やスクリーンセーバーを持っていました。のんびりした中にきりっと光る瞬間が走る、あの独特の世界観がたまりません。いがらしの作品は、「猫よ猫よ猫よ」と題して4コマ漫画が4品掲載されています。
「電気釜に乗るなって」と飼い主に注意された猫ちゃん。廊下を歩いていて、飼い主に「なんでこんなところにウンコ落ちてんだよ」とまたしても注意された猫ちゃん(いがらしはウンコネタが好きですよね)。どちらの作品も、その後に続く3コマは猫ちゃんだけが描かれているのですが、目の開き具合や向き、顔の向きが微妙に違って、じーっと見ていると、どこにも書かれていない猫ちゃんのセリフが浮かび上がってきます。
どんなセリフが見えてくるのかは、人によるのだと思いますが、感じたセリフを教えっこしても面白いと思います。他人がつけたセリフを聞いていると、感性が刺激されるかもしれませんね。「秘すれば花」と言いますが、猫ちゃんが表情だけで語っているだけに、何とも言えない面白さがにじみ出てくる、とても余韻のある作品です。
小説家の小池真理子は、猫の素晴らしさは宇宙の深淵と同じで言葉で語りつくせるものではないと言っています。また、猫が死んで悲しいのは、「どうして猫はかわいいか」「猫は自分に何を与えてくれる(た)のか」という問いに十分な答えを見いだせないままお別れになってしまうからということもあると、ママは思います(「三千世界の猫たちに感謝~『ネコ族の夜咄』」の記事を読んでね!)。
この問いに対しては、今回紹介した「作家と猫」の本で開高健が言っている通り、「その純真無垢なところが、人間の現世の傷をいやしてくれるから」という一つの答えが与えられたと思います。そこに気づいているからこそ、文筆家たちは出会いや別れの様子を綴ったり(尾辻克彦や三谷幸喜など)、迷いネコの広告を作ったり(内田 百閒)、猫の純真さと人間の感情を比べて反省文を書いたり(幸田文など)と、日常の中の光を拾い集める作業をしているのではないかと思います。ここに並べて書くには大変おこがましいけれど、ママも、ゾーイとウーゴのことを綴っていく中で、美しい思い出を忘れないように集めたり、忘れていた思い出を探してとどめたりしているのは、「日常の無心な経験が永遠になる」と信じているからです。
ちょっと分厚い本だけれど、読んでいるとゾーイとウーゴがどれだけかけがえがない存在なのかが実感できます。その時の気分で拾い読みするだけでも、心が癒され、戦線復帰できます。いろいろな文筆家の作品を一度に読みたい人にもおススメの本です。
書籍情報
作家と猫 平凡社 2021年